こんばんは!
明けましておめでとうございます。
ようやく、初めて書きます、2年のながはたです。
ずっと、書いてなくて、すみません(汗)
さて、ついに2011年が始まってしまいましたね。早いものです。
(というか、これ書いてる間に年明けてしまいました・・・。年内投稿間に合わなかった・・・orz)
そして、そんな新年のこととはまったく関係ないことを、書きたいと思います。
ついこの間のゼミで、「強い(強者の)人権観」と「弱い(弱者の)人権観」について少し勉強したのですが、そのこととフェアトレードについて、思ったことを少し。
まず、そもそも「強い人権観」と「弱い人権観」とは何かという話ですが。
これはまだ僕もちゃんと理解し切れていないので、間違った定義かもしれませんが、非常に簡単に言ってしまえば、「強い人権観」とは、自由意思を持ち、それに基づいて、お互いに「平等」な立場で、「自由」に、相手を「信頼(博愛)」して、契約することができる、そんな“すごい人”を対象とした、その人たちが好き勝手できるようにするための近代的人権観なのです。
ですが、はたして、そんな“すごい人”がどれほどいるのか?
言うまでもなく、この「強い人権観」の対象として暗黙に想定されている(前提でもある)のは、「西欧人」で「成人」で「男性」で「市民(金を持っている人)」である人です。
当然その条件からはずれる、「子ども」、「女性」、「非西欧人(未開人)」、「貧乏人」は、個も確立せず、「自由」な契約もできない、つまり、人権を享有するに値しない存在である、とされます。
そして、そこから、人権を享有できない=ハンディを負っている、だから、教育して施しをして、補ってあげよう。というような、パターナリズムに満ちた福祉主義、「福祉アプローチ」的考えが出てくるのです。
それに対して、「強い人権観」で排除されるような、子ども、女性、植民地出身者、などの「マイノリティ」こそ、人権が必要な「主体」であるとする、自立が困難な人々のための人権観、それが「弱い人権観」です。
この人権観の基本的姿勢は、「強い人権観」に基づく「上からの」、「施しの」福祉アプローチとは違い、人権の主体である「マイノリティ」のニーズベース、各自が要求するものから問題解決を図っていく、「人権アプローチ」と呼ばれるものです。
そして、現在では、「強い人権観」による福祉アプローチから脱却し、「弱い人権観」による人権アプローチへ切り替えていこうという動きに、人権問題を扱う運動のなかでは、なってきているそうです。
なんだか、前置きが非常に長くなってしまいましたが、僕が思ったのは、要は「フェアトレード」の活動というのは、このどちらの人権観に基づいた、どちらのアプローチなのか、ということです。
おそらく、フェアトレードの性質から考えれば、施し的な色の濃い金や食料の直接の援助などとは違い、いわゆる「弱者」である(途上国の)生産者を権利の主体として扱い、「フェアな(公正な・正当な)」「トレード(取引・貿易)」で、不当な搾取状態にある生産者が「自立」できるようにするという点で、「弱い人権観」が根底にあると言えるように思います。
ですが、ここで一つ気になるのが、「自立」ということです。
フェアトレードは、最終的には、生産者が何らかの援助を受けずとも、取引相手と公正な貿易を行って、経済的に「自立」できるようにすることを目指すものだと、僕は解釈しています。
もちろん、「自立」を目指すこと自体を決して否定するつもりはありません。
しかし、「人々は自立すべき」→「自立してこそ権利は尊重される」→「それでも自立できない人には福祉を」と、結局福祉アプローチへと戻ってしまう可能性を否定しきれない、そういう危険性もはらんでいるのではないか、と、ちょっと思うのです。
もちろん、そうであったとして、フェアトレードの運動すべてが否定されるなんてことは、当然ありませんが、やはり、このような活動に少しでも携わるものなら、そういうことは頭のどこかで考えておいた方がいいのかな(今更かもしれませんが)、と思う今日この頃でした。
無駄に長くなってしまってすみませんが、だいたいそんな感じです。
僕自身まだ、勉強不足で考えもまとまっていないので、だから何、という結論があるわけでもありませんが、とりあえず。
適当に読み流してやってください。。。
というわけで、そんなこんなで、2010年は大変お世話になりました。
今年2011年も、どうかよろしくお願いしますm(_)m
では、よい初夢を。
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